罰則条項


「もう、牙琉さん遅いから先に頂いちゃってますよ〜。」

 響也の腕を引いた少女はにっこりと微笑んだ。事態を飲み込む事が出来ずに、言葉を詰まらせた響也も、テーブルの上に鎮座する(赤貧な事務所)に不似合いな寿司桶で全てを察する。
 自分が取り返すべき『8,240円』はもうすでに、綺麗さっぱり無に帰したのだ。
 両手で抱える程の桶に中身はぎっしりと詰まっている。それでも某回転寿司の物らしい焼却可能な桶がこの場所に相応しかった。
「すみません、牙琉検事。御馳走になってます。」
 申し訳なさそうに頭を下げる王泥喜の箸も、遠慮無くウニを摘み上げたところで、軽く睨み、しかし直ぐに肩を落として息を吐いた。
 どう考えても、王泥喜に責任はないだろう。
「さ、早く座って、座って。」
 みぬきに腕をとられて、成歩堂の横に腰を下ろさせられる。そのまま、王泥喜の横に腰掛けたみぬきは、色取り取りに置かれた寿司に箸を迷わせてからトロに手を伸ばした。
「んん〜美味しい。みぬきこんな美味しいもの食べるの久しぶりです。」
 幸せそうに頬張るみぬきを見れば、抗議は完全に封じられる。響也は黙って成歩堂を睨んだ。

「…返せって…僕は言ったぞ。」

 電話で聞いたのと同じ弱々しい反撃に、成歩堂は笑みを浮かべて割箸と小皿を渡してやる。響也の手に収まった皿には、向かい側の席から手を伸ばした王泥喜が醤油を落とした。そうして、あ、と声を上げた。
「後で茜さんも来るって言ってましたから。少し手加減して食べて下さいね。」
「っ…検事局で逢ったのに、刑事くん何も…!?」
「僕が口止めしといたからね。わかったら君、来ないだろ?」
 成歩堂に言われ、確かにその通りだったので響也はそのまま口を噤んだ。すみませんと一言付け加え、王泥喜は寿司桶に向き直る。
 そうやって見れば、寿司の種類は多々あるが、全部5個づつ作られていた。資金は響也なのだから当然なのかもしれないけれど、こうやって成歩堂事務所の近しい人間として扱われる事が、不思議に思えた。
 僕は此処で敵対視されても可笑しくない人間ではないのだろうか。それとも、これは少し前までの、兄のポジションだったのだろうか?

「牙琉は、此処には滅多に足を運ばなかったよ。」
 成歩堂はそう呟き、自分の小皿をテーブルに置いてから響也に向き直った。返事を即すでもなく、にこりと笑う。
「何が好き?」
「あ、たま、ご…。」
 咄嗟に口をついて出た名前に、ふうんと感心なさげに答えながら、それでも響也の小皿に卵を乗せてやる。
「あんなお金、使ってしまった方がいい。君も、僕もね。」
「…。」
「違うかい?」
 無かった事にしようと、そう成歩堂が言っているのだと理解出来た。意味のない、ただ身体を繋げただけの夜。そして、出来事。
 確かに覚えていて何か意味があるとは思えない。それなのに成歩堂の言葉を聞いた途端、喉や胸が圧迫されたように重い感覚が沸いた。
 拒絶しているのだ。全てを抹消してしまう事を。
 そして、あの夜が成歩堂を間近で感じた『初めての夜』であることに気がついた。いつだって、遠かった男を文字通り肌で感じた夜だったのだと。

 …それが、何だっていうんだ。

 胸元に押し当てた手をギュっと握って、心中で呟く。
「でも、牙琉さんどうしてパパにお金借りたんですか?」
 無言で箸と口を動かしていたみぬきも腹ができたのか、会話に加わって来た。
成歩堂さんが貸すだけのお金を持ってた方が疑問ですけどね。と王泥喜が笑う。ははと笑い飛ばした成歩堂が、響也の肩に手を置いた。
 ぎょっと顔を上げた響也の鼻先に近付く唇は、ニヤリと弧を描く。
 
「ふたりだけの秘密だ。ね、響也くん」
「う、煩い。」
 誤魔化すように、小皿に乗った寿司を口に詰め込む。からかわれているのだとわかっているのに、反応を返してしまう自分が恨めしい。
「…という訳だから…。」
 すっと立ち上がった成歩堂につられて、響也は視線を上げた。さっきとは違う、どうにも読めない瞳と交わる。目を細めるだけの笑みが降ってきた。
 慌てて逸らした顔にも、視線を注がれているを感じて身体が萎縮する。
「ご馳走様。」
「パパもういいの?」
 吃驚した声のみぬきに、成歩堂は扉を指で示す。両手にストアの袋をぶら下げた茜が、がちゃがちゃと忙しない音を奏でながら、扉を蹴破ったところだった。
「ちょっと、まだ残ってるんでしょうね。差入れだって買って来たんだから!」
 みぬきの歓喜の声と茜の声が甲高く事務所に響く。
見れば、王泥喜はふたりの話に適当に相槌をうちながら耳を塞ぐという暴挙に出ていた。案の定にみぬきに見抜かれて、こっぴどく責められる。
「後は若い者同士おまかせするよ。」
 賑やかな笑い声が上がる中、成歩堂は茜の差し入れから葡萄の酎ハイの缶を手に取ると、所長室の扉を開いた。



 扉の向こうから聞こえてくる賑やかな声を聞きながら、ソファーに身体を鎮める。
成歩堂の意識は白紙に近い。それでも何処か心地良いのは、疎外されているという感覚がないからかもしれない。 親しい者達の輪に入る事がなくても、声を聞くだけ、姿を見るだけでも穏やかな気持ちになれた。
 アルコールが強い訳ではないので、チビチビと流し込みながら、体内に回っていく浮遊感に身を委ねていると、ノックの音がした。
 躊躇いがちに開いた扉から、響也が顔を覗かせる。
「邪魔していいかい?」
「殺人事件が起こった現場だけど、どうぞ。」
 にっこり笑って告げてやれば少しだけ嫌な顔をしたが、元々知っていたのだろう。特に気にするでもなく、成歩堂の向かいに座った。
 両手を身体の真横に置いて、座った途端足を組む。そうして、キョロキョロと周囲を見回した。
「だったら灯りくらいつけたらどうだい、余り気分の良いものじゃないだろ?」
 ブツクサと文句を口にするものの本気で怒ってはいないらしい。そのまま、放っていれば、響也は窓の外を眺めていた。一際明るいホテルの窓に視線が釘付けになっている。こちらが薄暗いのだから、明るい部屋の中でちょこまかと動き回る人間が映像のように見えて気を引かれるのだろう。
 けれど、此処にいるのに自分へ向けられない瞳が惜しい気がして、成歩堂はその横顔に向かって名を呼んだ。
 ふわりと肩に巻かれた髪が揺れて、顔が正面を向く。キョトンとした顔は、勿論笑顔ではない。
 
「…君がこっちへ来ちゃうとみぬきが寂しがるんじゃないか?」
「お嬢さんは刑事くんと女の子の話で盛り上がってるから心配ないよ。ちなみにおデコくんは後かたづけをしてて、邪魔…じゃなくて暇になっちゃったから、その…覗いてみたんだ。」
 暗に迷惑だったかいと訪ねてくる様子に、ふいに沸き上がってくる不快感の意味がわからず、成歩堂もただ首を横に振る。迷惑ならそもそも事務所の敷居などまたがせない。先程までの彼とのやり取りで、何処が不快に感じたのか判別不可だ。

 なら少し、話しをしてもいいかな?そんな前置きをして、響也は躊躇いがちに言葉を紡いだ。
「僕は、その、アンタという人間が良くわからない。前に此処に来た時には嫌いだと言っていたけれど、そのくせ酔っぱらいから庇ってくれたり…。」
「僕だって、君の何を知っている訳じゃない。」
 そう答えて、成歩堂はああとちょっと待ってと掌を振ってみせた。斜め上を見つめながら、顎に生えた無精髭を指先でゴリゴリと弄る。
「…ナニは知ってるか。」
「いいんだよ。そんな事付け加えなくても!」
 ドンとテーブルを叩き、響也は紅潮した目尻を隠そうともせずに成歩堂に喰ってかかった。
「だから、アンタは…!」
「わからないんだろう?」

 にこと笑えば、響也は困った顔をして視線を逸らした。
 もう一度、ストンとソファーに座って、今度は窓と反対側に顔を傾ける。表情も憤慨しているのか照れているのか、真っ赤になっている色濃い肌も暗がりに隠れて見えはしない。
 手を伸ばして、指先で触れれば、こちらを向いてくれるのかもしれないけれど。

「わからなくても、こうして会話も成り立つだろ?…ひとりで飲むのも、そりゃあ、いいだろうけれどね。」
「…。」 
「美味しかったよ。有り難う、響也くん。」
「アンタ…さ。そんな風に優しいのは、狡いよ。」
「狡い大人だからね。」



 絶句したように、あるいは呆れたように、それきり黙り込んでしまった響也に成歩堂は指を伸ばさなかった。ちらりと自分を一瞥した後は、響也も視線を戻さない。俯き加減で、睫毛を半ば閉じてるから、何か思考に填っている事は判断出来る。
 自分の言葉は、遠回りでわからないと王泥喜がよく口にするのだから、響也もそうなっているのだろうか。別に考えなしに口にしているのではなく、頭の中では色々と考えているのだけれど、出す時には要点しか言わない癖があるのだと思う。

 そもそも、手を伸ばさないのは、伸ばす為の理由が見つからないからだ。
 彼が何処を見ていようと、何をしていようと自分には全く関係のない話。それを否定するならば、自分は何らかの理由を持って関係を持ちたいと望んでいるという事になると、成歩堂は即座に否定した。
 勿論、こちらの理由の方が遙かに明確。王泥喜が教えてくれた事そのものだろう。
 好きとか、嫌いなどという嗜好の問題とは全くかけ離れた部分にある、自分にもよくわからない感情は、苦手だ。
 いっそ、牙流の方がつきあい易かったと感じて、笑いが込み上げてくる。高笑いをしそうな程に可笑しい。どうにも止まらないので、頭に被ったニット帽を前からくしゃりと潰して口を覆い隠した。
 ふっと漏れた吐息は帽子の中に篭る。アルコールを感じないものであったけれど、浮遊感だけは変わらずに感じていた、ふわふわとした感覚と同じく思考が定まる事がない。

 きっと、牙流も僕とつき合い易かったに違いない。僕たちは、互いに何も望まない関係だったはずだ。相手に対して、甘美な期待など欠片も持った事はなく、それ故に不満を感じた事もない。
 互いに対する常に明確な目的は、普通なら起こるであろう些細な諍いなど、生ずることすらなかった。
 ただ、摩擦〇の関係など、果たして関係があったというのかどうか定かではない。しかし、それ故に心中はいつも穏やかで不快感など感じなかったのだと成歩堂は思う。
 そして、響也と対峙する度に、それは最初の法廷からだったのかもしれないが、感じる不快感の理由を知りたいと思った。思って、また笑いが込み上げてくる。
 やはり、僕は目の前の彼に、何かを望んでいるのだろうか、黙ったままの響也に成歩堂はそう感じたのだ。
 望んでいるのに、相手は思い通りにならない。だから、不快。
なんとも単純な理屈だったが、あんがい真実はその辺りに転がっているものなのかもしれない。

「やっはり…僕にはアンタはわからない。」

 溜息と共に吐き出された響也の台詞に、珍しく成歩堂も同感の意を感じていた。


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